尊崇ではなく謝罪を
海軍の兵士として終戦を迎えた父は、翌年正月の天皇の人間宣言を戦後もっとも腹の立ったこととして挙げていた。また、なぜ、敗戦時、陛下は切腹なされなかったのだろうと嘆いていた。祝日には必ず日の丸を掲げるような愛国者であった父の思いを僕は矛盾したものと考えていた。
昨年末フィリピンで30年間戦争を続けた小野田寛郎さんが亡くなった。
小泉純一郎首相が終戦記念日に靖国神社を参拝した時、小野田さんは、参拝は天皇と兵士との約束であり、首相参拝には何の意味もないと発言していた。天皇を護って命を捨てた兵士を天皇は軍神として参拝するというのがその約束で、靖国神社の役割をはっきり定義することばだった。
小野田さんの発言は父の思いと同根である。兵士と天皇との約束は何の責任も取ろうとしない国家により一方的に破棄されたのだから。
戦死すれば靖国で軍神として祀られるという口実のもと、兵士の命は鴻毛より軽しと粗末に扱われ、二百三十万人の太平洋戦争の戦死者のうち9割が餓えや病気で犬死させられた。また、十五、六の少年たちに神として祀ってやると特攻させたことは、タリバンがアフガニスタンで十歳の少女に自爆攻撃させていることと大差ない。
国家神道というカルト教のもとに兵士の命を粗末に扱う口実が、靖国神社に祀るということだったのだ。
2013年暮、安倍晋三首相は靖国神社に参拝した。戦争に命を捧げた英霊に尊崇の念を示すためだという。国家は、戦死者を尊崇するなどとごまかす前に、命を粗末に扱ったことを国民に謝罪し、靖国の口実の下で人を粗末に扱うことは二度とないと誓わなければならない。
(2014/3/6)
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