BBキングの歩み@

 

歌人に辞世の歌があるのだから音楽家に辞世のアルバムがあってもおかしくはない。

2008年に発表されたBBキング最後のスタジオ・アルバム「ワン・カインド・フェイヴァー」はまさに、そんなアルバムだった。実際、毎年のようにスタジオ・アルバムを発表していたBBにそれ以降、2015年5月に亡くなるまで、スタジオ・アルバムは無い。

収められた12曲はすべて他人の作品。冒頭を飾るのはブラインド・レモン・ジェファーソンの「俺の墓がきれいになっているか見てきてくれ」。

BBキングが幼少期にSPレコードで聞いていた最初のアイドルがこのブラインド・レモンとロニー・ジョンソン。ロニー・ジョンソンの曲は同アルバムに3曲収録されている。他にはBBキングの師匠であるTボーン・ウォーカーが4曲、デルタの先輩ハウリン・ウルフが2曲。1930年代の人気者ミシシッピ・シークスとリロイ・カーのカバーも入っている。

自分を虜にしたブルースの古典をBBは慈しみを込めて歌い上げる。プロデューサーのTボーン・バーネットは現代性を加味しながらもBBの個性を活かし丁寧にアルバムを仕上げることでBBへの敬意と称賛とを表現している。BBキングの60年を超えるキャリアの中でも屈指の完成度を誇るこの名アルバムを手にした時からボクにはBBが辞世の作品を発表したのだと分かっていた。

なかでも冒頭のレモンの曲に圧倒的な味わいがある。

曲は二人のドラマーによるニューオーリンズのセカンドライン・ビートで始まる。呪術的なセカンドラインに乗せBBは噛みしめるようにテキサスの伝説的天才ブルース歌手が歌っていた歌詞をなぞる。

ブルースの世界最初の人気歌手であったブラインド・レモンは1926年から29年までのわずか4年の録音キャリアしかない。翌年シカゴで凍死するという不遇なキャリアの後半に歌った、自分の死と埋葬を歌った霊歌ともとれる不吉なブルース。黒人霊歌を歌うことでキャリアをスタートさせたBBが最後を締めくくるのにふさわしいと選んだ曲の底なし沼のような情感の深さがいつまでも頭の中で反復されるのだ。

 

ひとつだけ願いを聞いてくれ

ひとつだけ願いを聞いてくれ

ひとつだけ願いを聞いてくれ

俺の墓がきれいになっているか見てきてくれ

 

私事だが、昨年、息子を亡くした。25歳の世に知られないブルースマンだった。桜の季節が終わった頃にアルコールの事故で突然死した。その春、本人がやっと卒業したばかりの大学から100人以上の若い男女が葬儀に参集した。すべて音楽サークルの仲間たちだ。彼らのためもあって墓石を新調した。それからBBキングが亡くなる一年間の間に10回以上は彼らの墓参りに付きあって来た。そのたびごとにBBキングのこの曲が頭の中で鳴り響くのである。旧盆前の墓掃除の際には2時間にわたって鳴り響いていた。息子の大学卒業を記念して父子でニューオーリンズを旅した。その思い出と共にドンドコ・ドコドコというBBのセカンドラインが鳴り響いていたのだ。それどころではない。BBキングが亡くなる前の一年間、折に付け、この曲がボクの頭から離れたことはないのだった。

ボクは仏教徒であり死者の霊はすでに阿弥陀仏と共にあると信じている。だから墓などには特別の思い入れはない。遺骨や遺灰などは、ただの記念品みたいなものだと考えている。だが家族以外の人間には墓こそが聖地なのだろう。かれらは息子の霊があたかもそこに眠っているかのように詣でる。そしてそこで霊に語りかけ詠嘆し涙を流す。

墓をきれいにするのは家族の役割だ。だが、墓をきれいにするのは家族以外の者のためなのだ。墓がきれいに保たれるのは、家族も、詣でる家族でないものも、ともに故人の霊をなぐさめようという気持ちがあって初めて可能となる所作なのだ。亡くなった後までもずっと愛されていられますようにという願いが歌と成ったものがこのレモンの曲だ。

凍死したブラインド・レモンはずっと愛されていたのだろうか。そしてわれらがBBキングはどうなのだろうか。

 

BBキング以上に誠実で正直な人間をボクは知らない。ロックンロールやソウル・ミュージックがブームの時代、若者たちからブーイングの嵐を受けても心をこめて演奏した。旧ソ連では感情を解放させることを知らない聴衆にも一生懸命語りかけて心を開かせようとした。そんなことを自伝で書く人である。

愛器ルシール(ギター)よりも生身の女性とのセックスの方が好きで、何より女性の中に射精するのを好むと言う。1960年代の性解放の時代からは女性にオーラル・セックスをするのが楽しくなり、中年となった70年代には包茎手術も受けたと自伝で書く人である。

 精子に問題があって受精能力がないにもかかわらず、寝た女から主張されればすべて自分の子と認知してきた。それは今日の自分があるのは彼女たちの愛情を得たからで、自分の成功は彼女たちのおかげだからDNAなど関係なく彼女たちすべてに感謝を形で表わすべきだと考えているからだと言う。

その誠実で正直な人間がキャリアの終章として、82歳という気力体力が適う最後の瞬間に、自分を生み育んだ半世紀以上前の音楽とその音楽家に「21世紀のブルース」という形で誠意あふれるオマージュを表わさずにはいられなかったのがこの「ワン・カインド・フェイヴァー」なのだ。傑作にならないはずがない。

 

BBキングことライリーBキングは1925916日ミシシッピ州デルタ地帯にあるイッタ・ベナ近郊のジム・オライリーのプランテーションで、トラクター運転手アルバート・リー・キングと16歳の妻ノラ・エラ・キングの間に生まれた。ライリーが4歳のころ両親は別居。ライリーは母に連れられて母方の祖母エルノラ・ファーが住む同州のキルマイケルに移住した。

キルマイケルでは隣に住む一歳年上の幼馴染の女の子に性交を教えられ、繰り返すうちに、女性とのセックスが何よりの楽しみと安らぎだと思うようになった。ライリー6歳の時である。

母親よりも年若の大おばの家でブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソンのレコードを通じてブルースに親しむようになった。大人になってからも一日たりとも彼らの音楽を聞かない日は無いくらいだと心酔するBBの一貫したアイドルがこの二人だ。

かれらの、声と同じように感情に結びついたギターを用いて希望と興奮とピュアなエモーションを表出するブルースは、BBキング自身が求めてきた美学そのものに繋がっている。

ギターにあこがれを持つようになった幼少時のBBのそばには実際にギターがあった。

日曜日の教会で説教師アーチー・フェアーが弾くギター。そのギターとかけあうように師はしわがれた重々しい声で語り説く。師と会衆との呼応のうちに人々がひとつのリズムに合わせて体を揺らし、そこに聖歌隊が加わって合唱となる。ピアノ、タンバリン、ギターに合わせて手拍子、足拍子、声を限りに叫ぶような合唱。集会場は愛の祝福に包まれる。7歳のある日、教会での集会の後に、フェアー師はライリーの家を訪れギターを手ほどきしてくれたのだ。さっそく教会のギターを使って練習を重ねたライリーは翌年には年少の子どもたちにギターを教えられるくらいに上達していた。

ライリーが8歳のころ母親が病死し、2年後、祖母も亡くなった。一人ぼっちになったライリーを慰めたものはホウキの柄に針金を張った手づくりのギターだった。

12歳でようやくホンモノのギターを手に入れたライリーは聖歌隊の伴奏も務めるようになる。やがてエルクホーン・ジュビリー・シンガーズというゴスペル・カルテットを結成し、テナー・パートとギターを担当するようになる。だが、恋人のように大切にしていたそのギターが盗まれ、どん底の失意を味わった。

13歳になったある日、ライリーは、突然現れた父親のアルバート・リーに引き取られレキシントンに移住。初めて電気が通う中での生活となったレキシントンではラジオでカントリー音楽や黒人音楽に親しんだものの、新しい家族や環境になじめず半年で家出した。

キルマイケルに戻ってみれば身寄りは転居しており、彼らを追ってインディアノーラ近郊のジョンソン・バレットのプランテーションに身を寄せた。ミシシッピ州のデルタ地帯からスタートしたライリーの人生の舞台は同じミシシッピ州で100キロ南東のキルマイケル、そこから80キロ西方のレキシントンへと移動し、そして再びデルタ地域へと戻ったのである。

そのジョンソンの農園で13歳から4年間ロバを使って綿花畑を耕作した。収穫の時期には綿摘みに精を出した。その働きぶりが認められ17歳からはトラクターの運転手に抜擢された。

音楽面では、14歳で再びギターを手に入れるや、セント・ジョン・ゴスペル・シンガーズにセカンド・テナー兼ギタリストとして加入し周辺の教会で歌い始めた。失恋による絶望を味わったのもこのころだ。相思相愛の恋人が交通事故で家族ごと亡くなってしまったのだ。

また土曜日の夜には12キロ離れたインディアノーラへ繰り出して、映画館でビデオクリップのような音楽映画を見たり、音楽映写機にコインを入れたりして音楽に親しんだ。音楽映写機で見たチャーリー・クリスチャンのギターとスウィング音楽に魅せられ、ジャズに対する関心が急速に高まるなか、15歳のライリーは繁華街のジョーンズ・ナイト・スポットから漏れ出る音楽に心奪われるようになっていった。

年齢の問題で中へは入れないライリーは壁の割れ目から中を覗く。ステージではカウント・ベイシー楽団が、またある時はピート・ジョンソンとジョー・ターナーが、またある時にはチャーリー・パーカーやウォルター・ブラウンを擁したジェイ・マクシャン楽団がライリーを魅了した。ジャズばかりではない、別の時にはロバート・ロックウッドがギターを務めるサニーボーイ・ウィリアムソンが全身全霊をハーモニカに注ぎこんでいた。

ベイシーもマクシャンもサニーボーイも形態は違えどもみんなブルースだ。12キロの道のりを月明かりを頼りに歩いて帰る道すがらライリーの頭の中ではさまざまなブルースが鳴り響いていたのだ。

17歳になってトラクターの運転手としてプランテーションではなくてはならない存在になった頃、ライリーはとんでもない冒険を始めた。週末ごとにジョーンズ・ナイト・スポットがあるチャーチ・ストリートに座り込み、ギターを抱えて歌うのだ。

最初はセント・ジョン・ゴスペル・シンガーズで歌っている霊歌だった。だがそれでは感心してくれる通行人はいてもチップをくれる者はいない。試しに前の週に聞いたサニーボーイのブルースをまねてみた。すると、さっきは感心しただけで通り過ぎた男が今度はチップを握らせたのだ。ブルースはカネになる。いつしか午後から夜になるまで街頭でブルースを歌い10ドル以上稼ぐようになっていた。

農作業、ゴスペル・グループでの活動、ストリート歌手で大忙しのライリーには学校へ通うことが負担になってくる。その結果、10年生(高校1年)で学校を辞めざるを得なくなり、教育と学業に対する後悔とコンプレックスとが成人してからのBBキングの最大のトラウマとなってしまう。

1942年、ライリーの人生を決定するような音楽との出会いがあった。Tボーン・ウォーカーの音楽を聞いたのだ。自伝では初めて聞いたのは「ストーミー・マンデイ」だとしているが、1948年録音のその曲では時代が合わない。おそらくは大センセーションを巻き起こした「ミーン・オールド・ワールド」のはずだ。

Tボーンのブルースには大都会の小粋なカッコよさとカントリー・ブルースのブルーな感覚を兼ね備えた現代性があった。電気を通したギターは誰のものでもない彼独特のジャジーな和音をちりばめた単弦奏法で、フレーズの間が息を飲むほどカッコいい。そしてサックスやミュートしたトランペットが耳元で囁き、何本かのホーンが静かにリフレインを重ねる簡素で優雅なアレンジ。Tボーンの音楽は当時のライリーが音楽に求める理想をすべて実現していた。ライリーはむさぼるようにTボーンの音楽を聴いた。

当時、ライリーには教会で出あったマーサ・リーという恋人がいた。ある土曜日、ライリーはマーサを誘いインディアノーラでデートした。いいところを見せようといつものチャーチ・ストリートでしばらく歌い、集まったチップでマーサに贈り物した。夕食は小さなカフェで取り、そのままジョーンズ・ナイト・スポットの壁の穴にマーサを案内した。

たまたま出演していたのはルイ・ジョーダンとティンパニ・ファイヴだった。ニューヨークの洗練を伝える陽気で快活なホーン・アンサンブル。ルイは金ぴかのアルトサックスを振りかざしギョロ目やコミカルな身のこなしでナンセンスなブルースを歌い飛ばし会場を沸かせていた。

ルイのハッピーな音楽ですっかり打ち解けて、帰りの馬車の中でライリーは結婚を申し込んだ。

半年後、18歳になったライリーはマーサと結婚した。治安判事だけが立ち会い、式は無かった。プランテーションの一角に見つけた小さな小屋で二人の新婚生活はスタートした。

1943年、ライリーは18歳で軍隊に入った。1945年に基礎訓練が終わり、軍隊が噂ほど甘いところではないことに気付いたライリーはそのまま除隊し、もとのプランテーションでのトラクター運転手の仕事に戻った。

軍隊での収穫はフランス帰りの兵士からジャンゴ・ラインハルトの音楽を聞かせられたことだった。まるで悪魔のようにスウィングし、猫のように敏捷にアイディアを駆け抜けさせるジャンゴのギターはライリーを魅了した。

その年の暮れライリーとマーサはインディアノーラに転居し、プランテーションへの通いの小作人となった。

1947年の夏、ライリーは音楽で暮らしていきたいとの野望を持ちながらも、田舎のストリート歌手として行き詰まっていた。プランテーションでの仕事が足かせとなってセント・ジョン・ゴスペル・シンガーズも芽が出せない。家庭生活でもマーサは何度か流産を繰り返している。すべてにうんざりし始めたころ事故は起きた。

ライリーは農園主のトラクターを大破させてしまったのだ。常に誠実であるはずの人間に魔が差した。ライリーはギターをつかむと、すべてを放り出して逃げた。

メンフィスへ。そこへ行けばきっとなんとかなるだろう。デルタの最北部にあって世界最大の綿花市場のある大都市メンフィス。そこには親族でただ一人のプロのブルースマンである従兄弟のブッカ・ホワイトがいる。かれを頼ればきっと音楽の仕事があるだろう。人生の新しい展開があるだろう。

 あちこちで流しをしながらヒッチハイクし、200キロ北にあるメンフィスに着いた時、ライリーのギターには2本の弦しか残っていなかったという。

 とつぜんの出現にもかかわらずブッカはライリーを受け入れた。妻のマーサに無事を伝えると、ライリーはブッカが働くガソリンタンクを作る工場での仕事を手に入れた。プロの音楽家だと思っていたのに、ブッカも平日は工場労働者だったのだ。

 ブッカと同居しながらライリーは、週末のパーティに呼ばれてブルースを歌うブッカに、付き人のように同伴した。ブッカ同様に指にガラスの筒をはめて弦を滑らせるスライド・ギターも練習した。だが、ライリーにはスライド・ギタリストの資質は無く、すぐに挫折せざるを得なかった。

約8カ月メンフィスでなりを潜めて大都市の生活を観察したライリーは1948年春インディアノーラに戻った。農場主はライリーを許し、ライリーはトラクターの運転手の仕事に復帰した。トラクターの修理代は数か月かけて分割して弁済した。

その間、ライリーのインディアノーラの自宅にも電気が通うことになった。ようやくラジオで思う存分、最新の音楽が聴けるのだ。Tボーンのように電気ギターをアンプで鳴らすこともできる。

ラジオから流れる音楽はマディー・ウォーターズを始めデルタ出身のブルースマンがシカゴで活躍するさまも伝えてきた。だがライリーにとって音楽の都はあくまでメンフィスだった。今度こそはメンフィスで、音楽で身をたてるという思いは日に日に強くなっていく。その年の暮れライリーはとうとうプランテーションでの仕事を辞めメンフィスへと再びひとりで旅立った。

 

2度目のメンフィス行きの際のライリーのツテは会ったこともないハーモニカの名手サニーボーイ・ウィリアムソンだった。アイカンソー州ヘレナのKFFA局からの「キング・ビスケット・タイム」で南部一の人気ブルースマンになっていたサニーボーイはちょうどこのころミシシッピ川をはさんでメンフィスに隣接するウェスト・メンフィスのKWEM局に移って番組を持っていた。

そのKWEMでいきなりサニーボーイに自分を売り込んだのだ。

ライリーの歌を聞くとサニーボーイは気に入り、かれは生番組の最後でライリーに歌わせた。サニーボーイはさらにウェスト・メンフィスのクラブでの仕事もあっせんしてくれた。

クラブの女主人はライリーを気に入り週に六晩の仕事をくれた。そこは、うらのギャンブル場で男たちが賭けごとに熱中する間、女たちが踊って時間を過ごすという、女性とセックス好きのライリーにとっては桃源郷のようなクラブだった。

女たちにもてはやされて人気者となったライリーはスタートしたばかりの全米初の黒人音楽専門局であるメンフィスのWDIA局にも売り込みに行った。売り込みに成功してライリーは毎日、強壮剤ペプティコンを宣伝する10分間番組のDJの職を手に入れた。さっそく妻のマーサを呼び寄せてメンフィスでの新生活は軌道に乗った。

WDIAで活躍するDJにはみんなニックネームがあった。局がライリーに付けた名前が「ビール・ストリート・ブルース・ボーイ」だった。ライリーが毎週水曜日夜にビール・ストリートのパレス・シアターで開催されるアマチュア・コンテストにかかさず出演していたからだ。

ある時、ただ「ブルース・ボーイ様」と書いたリクエストが局に届いた。やがてブルース・ボーイをさらに略したBBという呼称でライリーは呼ばれるようになっていた。

半年後、BBはWDIAにとってもなくてはならない人気DJとなっていた。お手本としていたDJはアーサー・ゴッドフリー。なにより正直に誠実にマイクにむかって語りかけ人々の信頼を勝ち得ていたからだ。誰に対してでも誠実であろうとするBBの態度はこの時代に確立したものなのかもしれない。

局の数千枚のレコードに囲まれてBBはありとあらゆる音楽をかけた。聞いてくれる人を喜ばせたかったし、同時に新しい音楽をどんどん聞いて自分を教育したかったのだ。

黒人音楽が最も燃えあがっていた1940年代の終わり、BBこそはまさしくその渦中で、あたたかく美しい熱気を甘受していたのだ。

またメンフィスは南部各地から来たブルースマンがしのぎを削るブルースの町でもあった。デルタ直送の荒々しいブルースを、普及し始めたエレクトリック・ギターが支えていた。あらゆるイノベーションは最初の数年でほとんどすべてのアイディアを生む。新しいアイディアのもとに新しい音楽が生み出されるまさにそんな時代だった。

パット・ヘア、ロバート・ロックウッド、ジョー・ヒル・ルイス、マット・マーフィー、ウィリー・ジョンソンといったギタリストたちがギター奏法に工夫を凝らし、お互い影響し合うことによりエレキ・ギターの可能性を拡大させていた時代だ。かれらはメンフィス・アグレッシヴ・スタイルと後年呼ばれる、荒々しくドライヴの利いた迫力のある攻撃的なギター・サウンドを切磋琢磨の中で生みだしていくさなかにいたし、BB自身もその渦中のひとりだったのだ。

BBはいくら真似してもロニー・ジョンソンやTボーン・ウォーカーやジャンゴ・ラインハルトなどの自分のアイドルたちと同じ音楽を作り出せないのならと、きっぱりかれらのギター・スタイルをコピーするのをやめてしまう。

BBがギターで目指したものは、歌手のようにひとつの音をヴィブラートをかけながら長く引き伸ばす音を出すことだった。脳裏には従兄弟のブッカ・ホワイトがボトルネックで出すギターの響きがあったし、カントリー歌手を支えるペダル・スティール・ギターの音色があった。

さいわいBBは綿摘みで鍛えたデカくて太い指に恵まれていた。やがて弦をベンド(フレットに平行して押し上げること)して震わせることで声のヴィブラートに近い音を出すことができるようになった。続いては人の声とギターの音とでエモーションを結び付ける練習である。ギターを歌わせる方法をさがし求めたのだ。歌にも楽器にも連続した感情の襞を表現する必要からBBは歌いながら同時にギターも演奏するということを止めて、ひとつの感情の流れの中で歌と楽器とを交互に対話させることで曲を盛り上げていくという手法を自分のスタイルとした。

当時、BBはハーモニカのビッグ・ウォルター・ホートンとコンビを組んでいた。ビッグ・ウォルターもまたハーモニカの音を感情豊かに肉声化させることを持ち味とする演奏者だった。BBとビッグ・ウォルターの共演レコードが遺されていないのが残念だ。デルタ・ブルースの生々しい感情が、戦後のモダニズムの中で都市化し、新しい表現を模索する格好のサンプルだったはずだからだ。

1949年の暮れにはBBは活動の範囲を拡げ、週末にはメンフィスから車で数時間というスポットでも演奏するようになっていた。

ボクが初めてBBキングを見たのは1972年秋に2度目の来日を果たし、NHKテレビの「世界の音楽」に出演した時だ。なぜBBというのかと質問され、「ほんとうはビール・ストリート・ブルース・ボーイの略なのだ」と答えていた。ビール・ストリートはメンフィスの繁華街で、クラブや劇場が並ぶ、ブルースを始めとする音楽の中心地なのだ。ヴェガスに住もうとニューヨークやLAでレコーディングしようとBBにとっての音楽の中心地はメンフィスであり、メンフィスが自分を育てたことを感謝し誇りとする姿勢が高校生のボクにも強い印象を与えた。

実際、BBに言わせればメンフィスは世界で一番のうまい料理が20セントで味わえる町である、当時のビール・ストリートは活気に満ちあふれていた。人種偏見の強い時代にあって、ここだけは音楽を通じて人々が心を通わせ理解できる聖地だった。南部各地から集まった腕利きの音楽家がハンディ公園からストリートにかけて溢れ、ミッチェルズ・ホテルでは平日にはジャム・セッションがあり週末には有名バンドが出演した。なかでもベストはアル・ジャクソン・シニアのビッグ・バンドであり、サックスのベン・ブランチやフィニアス・ニューボーン父子が在籍するタフ・グリーンのバンドや後年BBとツアーすることになるビル・ハーヴェイのバンドなどだった。

BBも、生粋のメンフィスっ子である弱冠20歳のロスコー・ゴードンを中心に集まったグループに加わった。その名もビール・ストリーターズ。そこにはドラムのアール・フォレスト、ピアノのジョニー・エイス、そして18歳のボビー・ブランドが加わった。

誰もが新しい時代のブルースを創造する意欲に燃えていた。ボビーも当時は、BBに心酔し、BBの歌い方をマネてばかりいた。そのグループは流動的でシバリもなかったので、BBはジョニー・エイスやアール・フォレストを伴ってWDIAの番組にもしばしば出演した。

BBの初めてのレコーディングをあっせんしたのもWDIAだった。局のオーナーにさんざんせがんだおかげで、オーナーはナッシュヴィルのブリット・レコードにBBを紹介してくれたのだ。録音もWDIAのスタジオで行われ、バックはタフ・グリーンのバンドが務めた。

セッションで吹き込まれたのは4曲。そのうちの1曲は「ミス・マーサ・キング」という妻マーサ・リーを讃えたものだ。マーサの不妊とBBの不規則な生活や女遊びで夫婦生活は破綻の瀬戸際にあった。BBがウェスト・メンフィスの女性が生んだ子を最初の子として認知したのもこの頃だった。BBはなんとかマーサをなだめ、繋ぎ留めたいと思っていたのだ。

1949年夏に発売された「ミス・マーサ・キング」も、秋に発売された「ガット・ザ・ブルース」も鳴かず飛ばずだった。ゴスペル由来のヴォーカルと、それに呼応するチョーキング・ギターをジャズ濃度の強いバンドが支えるという革新的なスタイルはまだまだ試行錯誤の段階だったのだ。

 ブリットはしばらくして潰れ、BBは自分の未熟な演奏が会社の倒産を招いたのだと激しく落ち込む。

だがそんな未熟な演奏に新しい時代のブルースの萌芽を感じていたレーベル経営者もいた。ロサンゼルスで1945年に設立されたモダーン・レコードを経営するバイハリ兄弟がそうだ。

 

1950年9月メンフィス・レコーディング・サーヴィスとして発足したばかりのサン・スタジオでモダーンへの最初のレコーディングは行われた。エンジニアはスタジオ経営者のサム・フィリップス自身が務めた。バンドは当時BBのバンド・メンバーであったピアノのフォード・ネルソンにベースとドラムだけが付いた4人組。吹きこまれた4曲は2枚のSPレコードとして発売されたが芳しい成績は収められなかった。だが、BBのヴォーカルはつややかでメロウな味わいがあり、後年めったに聞かれなくなった歌唱のバックでのギターのいきいきと跳ねるコード・ストロークやTボーン直系のスウィンギーなソロなど聴きどころは多い。

モダーンもBB自身も、もっとアーバナイズされたサウンドが成功のカギだと嗅ぎ取ったのであろう。翌51年1月の2度目の録音セッションからはホーンが入るようになる。

たった一本ホーンを加えただけでBBキングとオーケストラと名乗るところはご愛敬だ。

3月の3度目のセッションからは名うての名手フィニアス・ニューボーン父子がバックに加わることになる。やはりそれでもレコードの売り上げは芳しくなかった。

レコードでの失敗はともかく、WDIAが出力を上げたことも幸いしてBBの名は各地で売れていた。

週末ごとにメンフィスを中心に150キロ以上の範囲でBBはギグをこなしていく。ミシシッピ州やアーカンソー州の下品なロードハウスが中心だ。そこではギャンブルが盛んでBBもギャンブルの楽しさにはまるようになった。

そんな折にクラークスデイルでのギグで知り合ったのがアイク・ターナーだった。

BBの紹介でメンフィスのサン・スタジオで吹きこんだアイクの率いるキングス・オブ・リズムは、ジャッキー・ブレンストンとデルタ・キャッツの名のもとでロックンロール第一号ともいわれる「ロケット88」のナンバーワン・ヒットを放った。ところがそのレコードを発売したシカゴのチェス・レコードは歌手のジャッキーだけを優遇し、リーダーのアイクには冷淡だった。

アイクはチェスのライバル社であるBBも専属であるLAのモダーン・レコードと接近し、重用され、そこでタレントスカウトも務めるようになっていた。

そしていよいよ1951年9月の録音セッションである。

この時は、ピアノをそのアイク・ターナーが務めた。ホーンはウィリー・ミッチェルにベン・ブランチにハンク・クローフォードと実力者たちの3管編成である。

吹きこまれた曲は南部のロウダウンな味わいを生かしながらも、西海岸でブルースの現代化と都市化を推進する尊敬する先輩ロウエル・フルソンが書いた「スリー・オクロック・ブルース」をはじめ3曲。フルソンはBBがWDIAでDJとして頻繁にその曲をかけてくれていたことを知り、メンフィスへ演奏に来た折、BBにその曲を自由に演奏してよいとプレゼントしてくれていたのだ。

素朴な弾き語りスタイルのフルソンの原曲にBBはモダン・ブルースとして別の命を与えた。闇を引き裂くようなイントロのギターからたくましい。やがて通奏低音のように響く重厚なホーン・アンサンブルが鳴る中、張りのある艶やかなBBのヴェルヴェット・ヴォイスで歌は始まる。「朝の3時だと言うのに瞼さえ閉じられない。もう朝の3時だと言うのに瞼さえ閉じられない。俺のベイビーがいないんだ。ああ心は落ち着かない」。

一節ごとに入る合いの手のようなギター。くっきりとした短音のオブリガートが嘆きの感情を増幅する。歌とギターとが切れ目なくお互いを補完し、それを柔らかなホーンのアンサンブルが下支えする。うなりやため息や叫びを交えて裏声も駆使し、それでいてなめらかでセクシーなBBの歌唱がまた見事なのだ。何度も繰り返し聴きほれたいと思うような純粋な音楽の魔術がここにある。

 「スリー・オクロック・ブルース」は年末にはビルボード誌のリズム・アンド・ブルース・チャート1位を記録し5週に渡ってその座を維持した。

BBにとってはそのR&Bチャートのトップに立てたことはなによりうれしいことであった。ブルースを基にしながらも新しい時代の息吹をすべて加えた現在進行形の音楽。それがBBの考えるR&Bであり、BB自身、晩年に至るまで一貫して自分をR&Bのアーティストだと認識していたのだから。

1987年になってBBキングを中心に「スーパーセッション」というスタジオ・ライヴのヴィデオ作品が作られた時、BBはグラディス・ナイトやエタ・ジェイムズと共演した。ふたりとも1950年代にR&Bのゴッドファーザー、ジョニー・オーティスが育てデビューさせた歌手である。グラディスは1950年にパーシー・メイフィールドがヒットさせた「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」をBBと歌った後、パーシー・メイフィールド未亡人を観客に紹介しパーシーの功績を讃えた。これはBBの意向をくんだ番組構成だったはずだ。この時、BB自身が自分の立ち位置をジョニー・オーティスやパーシー・メイフィールドと同じ種類のR&Bにあると認識していることをボクは理解したのである。

「スリー・オクロック・ブルース」の成功はBBの生活を一変させた。

1952年、BBは地元プロモーターであったロバート・ヘンリーを最初のマネージャーとする。ヘンリーはニューヨークのユニバーサル・アトラクションズにBBのツアーのブッキングをさせた。BBは彼らが組み合わせるバンドと全米各地をツアーすることになり、メンフィスを拠点としていたかれのバンドはピアノのジョニー・エイスが引き継いだ。

メンフィスを留守にする生活が続きBBはとうとうマーサとの結婚を解消せざるをえなかった。

チャート上ではBBの快進撃が続く。1956年までの5年間に放ったトップ10ヒットは12曲。うちナンバーワンも3曲ある。瞬く間にBBはR&B界のトップ・アーティストのひとりとなったのだ。

ヒットした多くのスロウ・ブルースのテーマは男女の恋の駆け引きによってもたらされる心の痛みだ。不器用なBBには自分が歌うブルースは自分が信じるものでなければならない。それらは「愛しているとはわかっているくせに」「愛をお願い」「おまえにイライラさせられて」「ハートがハンマーのように高なる時」「10年もの長きに」「愛をいっぱいに」などで、しぜん、マーサとの結婚生活でもたらされた心の葛藤がそのモチーフとなっていた。

ツアーでのさまざまなバンドや音楽家との出会いはBBの知見や音楽性を拡げるものではあった。だが質の悪いバンドで人前に出ることが余儀なくされる場合もあった。しかもツアーの回数も身入りも減りだしていた。

メンフィスへ戻れば気心の知れた仲間がいた。とくにビル・ハーヴェイのバンドとホームタウンでギグをこなすことはツアーに疲れたBBにとっては常に救いであった。

そのビルの紹介で、テキサス州ヒューストンのモーリス・メリットがBBの新しいマネージャーとなり、ツアーの調整も同じヒューストンのバッファロー・ブッキング・エイジェンシーが担当することになった。もちろんビル・ハーヴェイのバンドをバックに付けてのツアーを組むためである。

1952年秋からはそのビルのバンドをバックに付けてヒューストンでの録音も始まった。ヒューストンはTボーン・ウォーカーを育てた町である。Tボーンに続けとゲイトマウス・ブラウンやゴリー・カーター、ズズ・ボリンらを中心にヒューストン・ジャンプと呼ばれるもっともイキの良いR&Bが燃え盛っていたこの時期、この町のシーンがBBにも大きな刺激とアイディアを与えたことは想像に難くない。バンドはジャンプし、BBのギターも縦横無尽のダイナミックさである。そしてゴスペル仕込みのつややかなシャウト唱法はヒューストンの連中が束になってかかっても真似のできないものだった。この時期、ゆるぎない自信のもとにBBのギターも音楽性も格段の進歩をとげるのだ。

1953年、54年、BBキング・フィーチュアリング・ビル・ハーヴェイ・バンドは全米各地をツアーして回っていた。2台のステーションワゴンと1台のキャディラックで、7人のバンドに男性歌手二人、女性歌手ひとりプラスBBというメンバーが巡業して回った。メンバーはみな芸達者で歌あり笑いあり寸劇ありのレヴューの形で全米各地を公演した。公演地の中心は南部のミシシッピ、アーカンソー、アラバマ、ルイジアナ、フロリダ、ジョージア。ヒューストンがマネージメントの拠点であることからとりわけテキサスが多かった。

いっぽうツアーの合間をぬってレコーディング作業することはかなり苦労のいることだった。1951年にはほとんど毎月のようにメンフィスのスタジオに入っていたBBだったが、1952年には4回となり、53年には2回となっているのだ。レコーディング場所もヒューストンやシンシナティへと移動している。そのシンシナティでのレコーディングはビル・ハーヴェイ楽団とのツアーの最中だったのではなかろうか。

1954年から、モダーンは会社の本拠地があるロサンゼルスのスタジオにBBを招くようになる。そのスタジオでモダーンが用意したアレンジャーがマックスウェル・デヴィスだった。デヴィスはBBの無二の親友になる。

言わなくともBBの頭の中で鳴る音楽をすべて理解し、それを瞬時にして形に表せる感覚と技術を持っていたのがマックスウェル・デヴィスだった。BBの歌唱とルシールとが一体であることも理解し、常にギターの聴かせどころ用意してくれるアレンジにBBは大満足だった。もちろんそれでいてデヴィス自身のサウンドやアイディアがあり、それがBBの構想に加わることでBBの音楽はさらに実り豊かなものになったのだ。

マックスウェル・デヴィスこそは戦後の西海岸R&Bシーン最大の功労者だ。エイモス・ミルバーンの「チッキン・シャック・ブギ」や「バッドバッド・ウィスキー」、パーシー・メイフィールドの「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」、エタ・ジェイムズの「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリー」、フロイド・ディクソンの「テレフォン・ブルース」、ジャックスの「ホワイ・ドント・ユー・ライト・トゥー・ミー」、キャデッツの「ストランディド・イン・ザ・ジャングル」、マーヴィン&ジョニーの「チェリー・パイ」。それぞれのアーティストの代表ヒットはみんなこのデヴィスのアレンジによるものだ。

BBキングの1954年以降のモダーン/ケント・レーベルのもとでのヒットもすべてこのデヴィスが手掛けているし、BBがグラミー賞を受賞した1971年の大ヒット「スリル・イズ・ゴーン」も、もとはデヴィスが1951年に手掛けたロイ・ホーキンスのヒットであった。

BBがモダーン/ケントを離れた1960年代にはデヴィスの仕事はロウエル・フルソンやZZヒルに集中する。あのかっこいい「トランプ」のアレンジがデヴィスの仕事である。

BBには夢があった。あこがれのカウント・ベイシー、デューク・エリントンやパーシー・メイフィールドは自分のバンドを持ち大きなバスで移動していた。バンドを組織し大きな乗り物で巡業することが信用と成功のシンボルだったのだ。

1955年、中古のグレイハウンドを買い取りビッグ・レッドと名付けてツアー用のバスに仕立てた。メンフィスやヒューストンの腕利きを集めてBBキング・バンドを結成した。バッファロー・エイジェンシーは相変わらず過密ともいえるスケジュールでツアーの日程を組んでくれていた。

1956年の公演回数は342回。1950年代半ばから40年間、年平均330回のショウをこなし、出られなかったギグは18回だけ。それもほとんどが悪天候で現地にたどり着けなかったからだというのがスゴい。70歳になった1990年代でも年間250回はこなしていたのだ。

BBキングのファンはBBと同年輩かそれよりも年上の黒人たちだった。かれらは熱心で、行く先々でBBのショウはやんやの喝さいで受け入れられた。またかれらは熱心なレコードの購買者でもありBBの発表するレコードはおおきなヒットは出なくなったがそれでも常に一定の売り上げを確保していた。

だがこの時期、白人ティーンエイジャーという黒人音楽の新しい購買層が育ちつつあった。市場は敏感で、白人ティーンエイジャーのために書かれ、演奏されるR&Bが用意されるようになる。それがロックンロールだ。

ブラック・ミュージックの美しさが広い層に受け入れられてきたのだと、BB自身はロックンロールの流行に好ましい感情を持ってはいた。だがBBのブルースにはジョー・ターナーやジミー・リードやレイ・チャールズのように人種を超えた普遍的な音楽性は無かったし、チャック・ベリーやリトル・リチャード、ボ・ディドリーのようにティーンエイジャー向けの曲を書けるほど器用ではなかった。

ロックンロールの時代、BBキングはパッとせず、その成功もしぼんできたように思われた。BB自身が焦っていたのである。

1958年にはBBの焦りを示す3つの事件が連なる。

ひとつ目はモダーン・レコードとのいざこざだ。

BBキングはバイハリ兄弟のモダーン・レコードでは最大のスターだった。かれらはモダーンから出すBBのシングル・レコードをLPにまとめ、クラウン・レーベルから発売していた。

BB最初のLP「シンギン・ザ・ブルース」は1957年に発売され、翌年には2枚目3枚目のアルバムも発売された。だがBBには不満が残る扱いだった。レイ・チャールズやジョー・ターナー、チャック・ベリーなどほかの会社から出たアーティストたちのLPはきれいな写真が付き、ビニール・コーティングされた丈夫なジャケットに入れられ、裏にはライナーノーツも付いて3ドル99セントで売られているのに、クラウンのBBのアルバムは粗末なボール紙のジャケットに薄い表紙が張られているだけ。裏にはライナーノーツではなくクラウンから出ている他のアルバムのカタログが印刷されており、見るからに粗末だった。時には特価のカット・アウト盤の箱に99セントの廉価盤として並べられていることもあったのだ。

 1958年、BBはシカゴのチェスに4曲のデモ録音を送っている。チェスはBB獲得に意欲を示していたのだ。モダーンとの契約が切れる直前、BBはアルバム一枚当たりの前渡し金を3000ドルから5000ドルに変更するようバイハリ側に要求した。だが、バイハリは拒絶した。バイハリとの契約切れを待っていたチェスからは前渡し金を5000ドルにするとの申し出があった。

1959年、BBはチェスへの手土産にするつもりでシンプルな編成で愛唱するブルースの古典をカバーしたアルバム「マイ・カインド・オヴ・ブルース」を製作した。BBの本気を知ったモダーン側はようやく前渡し金を上げ、BBの要求を飲み、「マイ・カインド・オヴ・ブルース」を発売を約束した。

 2番目は2度目の結婚をしたことだ。

相手は故郷メンフィスで旧知の少女だったスー・ホール。1児を持つ18歳の快活で野心的な現代女性だ。6月、BBはデトロイトへ赴き、心酔する説教師CLフランクリン(アレサ・フランクリンの父親)を導師として結婚式を挙げた。スーはカリフォルニアに住むことを主張し、1959年にBBはロサンゼルス近郊のパサデナに家を買った。

 結婚を焦りと取るのはBBに対しては失礼かもしれない。聡明な美人であるスーはBBにとって申し分のない魅力的な女性だったかもしれない。だが、BBの妻としてスーがふさわしい女性であったのかどうかは別問題だ。利発で行動的なスーはBBの仕事にあれこれ口出しをし、しまいにはツアーにも同伴させるよう要求したのだ。旅の先々で出会った女性とのセックスを心の安らぎとするBBには苦しい要求である。BBはやはり何かを変えようという焦りの中で結婚を急いだとしか思えない。結局この結婚も8年後には破たんし、おまけにスーにまで訴えられることになるのだから。

 そして3つ目はツアー・バスの事故である。BBが同乗していない時バスが大きな事故を起こした。さいわいバンド・メンバーにけが人は出なかったが、正面衝突した相手の車は炎上し二人の死者が出たのだ。悪いことにバスの損害保険がちょうど切れていた。BBは250万ドルの賠償金という負債を抱えることになったのだ。BBはすぐに貯金すべてをはたいて新しいバスの頭金にした。ツアーを重ね、年間340回のギグをこなし、コツコツと返すことしか手立てはなかったからだ。

 

1959年暮れ、BBはモダーンでかねてからの念願であったスピリチュアルのアルバムを制作すると、大会社ABCへの移籍の交渉に入った。

ABCはロイド・プライスを皮切りにレイ・チャールズやファッツ・ドミノやインプレッションズを獲得して黒人音楽に積極的な展開を始めていたからだ。大先輩ルイ・ジョーダンとファッツ・ドミノの助言が決定的だった。ふたりとも自分を大きく売り出すためには大きな器が必要だと諭したのだ。

モダーンは残る契約期間にBBにできるだけ多くの録音を残させようとした。1962年初めまでの2年間に録音された楽曲は100曲を超える。

BBとバンドの成熟を示す完成度の高い素晴らしい作品群が移籍後じつに10年間ケント・レーベルから発売されてヒット・チャートをにぎわせた。

1967年に発売され、日本ではモダーン時代のBBの最高傑作とされる「ザ・ジャングル」をはじめ、移籍後1960年代にケント・レーベルから発売されたアルバムは10枚を超える。

 

ABCでのレコード製作はすべてがBBにとっては別世界だった。会社はアレンジにカネをかけ最高のミュージシャンを集めてくれた。だが新しい環境にBBが戸惑い、実績を築こうともがいているうちにも黒人音楽の世界では目覚ましい動きが起こっていた。ソウルの時代が始まっていたのだ。

BBはブッキングをヒューストンのバッファローからニューヨークのミルト・ショウに換えた。ミルト・ショウには新しい息吹を伝えるソウル・スターたちがたくさん所属していたからで、BBは新しいファンの獲得に踏み出したのだ。

だが、ソウル・スターたちの前座として出演したBBにはブーイングの嵐が待っていた。最新の流行に敏感で、サム・クックやジャッキー・ウィルソンやマーヴィン・ゲイの躍動的なショウを待つ若いファンたちはBBのブルースが親次世代の古くてくたびれたものとの先入観があった。ブルースなんて恥と屈辱にまみれていた歴史の一時期を象徴する薄汚れた音楽だとの思い込みがあったのだ。ブルースをそんな恥や屈辱に立ち向かうための表現と考えるBBは深く傷ついた。

ブルースは貧しい黒人の農民によるみじめで単純な音楽だという偏見を持つ者は若者たちに留まらない。

ある司会者は最大の賛辞を込めてジャズの人気演奏家を紹介し、続いてステージに立つBBを「臓物料理の準備はいいかい」と紹介した。BBはブルースがジャズより劣るものという偏見と闘わなければならなかったのだ。

日本でも同じ偏見がある。1970年代初め買ったジェフ・ベックのLPにはジェフ・ベックがいかに優れたギタリストかという解説がご丁寧に楽譜まで添えて付いていた。引き合いに出されていたのはわれらがBBキング。BBの「ロック・ミー・ベイビー」の単純なギター・ソロをジェフがいかにたくさんの装飾音をくわえて複雑に進化させたかというものだ。それを読んだ多くのロック・ファンもまたBBの音楽やブルースを未発達で劣ったものと受け取っただろう。解説氏は必要最小限の音こそ最も雄弁だというブルースの鉄則をご存じないらしい。音と音との隙間にエモーションが込められるというブルースの美学を理解しないものにブルースは単純で劣っていると言う偏見を振り回されるのはコリゴリである。

一方、当時の白人の評論家たちはピュアなブルースの「再発見」に余念がなかった。南部の田舎で体が不具な年寄りがギター片手に戦前のままのスタイルでほそぼそと歌ってきたものというのが、かれらの考えるブルースであり、それは、ヒット・チャートや大衆の娯楽とは無縁のものでなければならなかったのだ。かれらはBBのブルースを、ホーン・セクションを加えたり、大音量のエレキ・ギターを使った、商業主義に毒されて堕落したものと見ていた。

黒人の若者からは時代遅れとさげすまれ、白人の若者や批評家からは現代的すぎると軽蔑される。公民権運動が黒人の尊厳のために闘っているさなか、BBはモダン・ブルースの尊厳のために闘っていた。偏見の中、BBを支持するのは古くからのファンに限定されていく。

ABCはBBの処遇に戸惑っていた。ファースト・アルバムはポップ・フィールドでバラディアーとしてBBを売り出そうとストリングスを配した曲と、旧知のマックスウェル・デヴィスがアレンジした曲とが混在し、中途半端な作りとなっていた。

だが黒人街を抱える大都市での黒人大衆の支持は相変わらず圧倒的だった。ワシントンDCのハワード劇場、ボルティモアのロイヤル劇場、ニューヨークのアポロ劇場と並び、BBがやんやの歓呼で迎えられる黒人劇場がシカゴのリーガル劇場だった。

1964年、プロデューサーのジョニー・ペイトはリーガル劇場でのコンサートを録音してABCからの2枚目のアルバムにした。それがいまだに最高傑作との呼び声の高い「ライブ・アット・ザ・リーガル」だ。BBやバンドばかりではない観客も熱い。黒人大衆の祝祭の場としてのモダン・ブルースの生の姿をここまでとらえたアルバムはそれまでになかったのだ。

2015年5月、BBが亡くなった時、ニュース番組にエリック・クラプトンが出てインタヴューに答えていた。このアルバムを自分の人生を決定したレコードだと最大の賛辞を送り、どこかで見つけて聴いてほしいと語っていた。だが、そのあとのコメンテイターの発言がサイテーだった。BBの最大の功績をエリックのようなロック・スターを育てたことだとしていたからだ。

エリック・クラプトンに留まらない。BBの影響は海を超えて人種を超えて波及していた。

ビートルズを先頭に、英国のロックが雪崩を打ってアメリカを侵略した時、バンドのメンバーたちがインタヴューに答えて米国のブルースに影響を受けたと語ったことはBBの大きな励みになった。なかでもジョン・レノンがBBキングのように上手にギターを弾ければよかったと発言したことでBBは大いに気を良くした。

国内でもジョニー・ウィンターやポール・バターフィールドやマイク・ブルームフィールド、エルヴィン・ビショップといった若い白人のロック・スターたちもインタヴューのたびにBBキングの名を出してほめてくれるようになっていた。

1966年、シカゴ大学の大学院生チャールズ・カイルが書いた「アーバン・ブルース」はBBとボビー・ブランドを例に挙げ、都市化した現代黒人社会の祝祭となったモダン・ブルースがいかに批評家たちから過小評価されているかを語った。評論が世論を作るマスコミの世界で白人でありながら白人エスタブリッシュメントに敢然と立ち向かい多くの石頭たちの偏見を打ち壊したのだ。BBの写真を本の表紙に使い、BBへのインタヴューを書物の中心に載せ、BBの音楽と社会的な役割をベタ褒めし、人々の目と尊敬を見事にBBに向けさせたのだ。

 

どうやら風向きが変わって来た。

相も変わらずチトリン・サーキットをめぐる日常の最中で、BBも新しい展開を求めていた。

1968年、思い切ってマネージャーを代えたのである。新しいマネージャーはそれまでも会計士として使ってきたニューヨークのシド・サイデンバーグだ。

そして10年間住んだカリフォルニアを去り、シドが住むニューヨークはマンハッタンに居を定めた。壊れてしまった結婚生活を忘れ、憎たらしいカリフォルニア州税委員会とも決別したかった。のちに大統領となるレーガン州知事もBBは嫌いだった。

シドこそはBBを理解してくれる人間だった。しかもシドにはヴィジョンがあった。BBキングを知らなかった人たちにもBBを知り、好きになってもらい、マーケットを拡げていくという展望があったのだ。

シドがまずやったことはブッキング・エイジェンシーを代えることだった。ファッツ・ドミノやルイ・アームストロングを売り出した全米一の代理店「アソシエイテッド・ブッキング」がBBの公演を取り仕切ることになった。

アソシエイテッドのブッキングでBBはサンフランシスコのフィルモア劇場に出演した。そこではビーズや花びらを身にまとい、マリファナを吸って、男女イチャイチャしながら平和を訴えるフラワー・チルドレンと呼ばれる長髪の白人の若者たちがBBを受け入れた。スタンディング・オヴェイションでBBを迎えたヒッピーたちは、BBが歌う愛を自らの愛と受け止め、出演のあいだじゅう立ったまま叫びを上げ、足を踏み鳴らしてBBの演奏に応えたのである。

クレイジーな格好をし、クレイジーな行動をする若者たちが観客として、あるいは演奏家として、相も変わらず三つ揃えを着て土臭い愛を歌うBBを受け入れ称賛してくれる。BBの前には白人の若者という新しいファン層が拡がっていた。

1969年にローリング・ストーンズが全米ツアーの前座にアイク&ティナ・ターナーと共にBBキングを選んだことも新しいファン層の獲得に繋がった。

 マネージャーのシドはBBに新しいファンが付いたことを見るや、ロック・フェスティヴァルへの出演を増やしていった。ロック・ミュージシャンとの交流も多くなった。レオン・ラッセルやキャロル・キング、アル・クーパーなどが作品を提供したり、アルバムで共演するようになっていく。

 

1969年秋、BBはニューヨークのマンハッタン・スタジオでレコーディングした。キャリアをスタートさせた20年前からのお気に入りに新しい解釈を加えたかった。選んだのはかつてBBが専属だったモダーン・レコードから1951年に発表されたロイ・ホーキンスの「スリル・イズ・ゴーン」で、女性との仲が気まずくなったが、おかげで自由な人生を手に入れられると、BBの2度目の結婚生活の破たんを象徴するような内容のマイナー・スケールのブルース・バラードだ。

ニューヨークの腕利きセッション・ミュージシャンたちが作り出す静かなファンク・リズムに支えられルシールが物悲しいイントロを奏でると、それを引き継いでBBは憂いに満ちた歌声で行き詰まりの愛を吐露する。歌とギターが対話するように交互にソロを取る中、やるせない感情はどんどん深まっていく。プロデューサーのビル・シムジックは後半に重苦しいようなストリングスを加えた。

伝統にのっとりながらも革新的で現代的なブルースは多くの人の心をとらえた。時代の変わり目の人々の不安と希望とがないまぜになった感情をここまでとらえた楽曲は無かったからだ。

1970年代が始まるとともに「スリル・イズ・ゴーン」はチャートを登った。3月にはR&Bチャートでは3位にまでなったが、何よりBBを喜ばせたのはポップ・チャートでも15位まで上がる大ヒットになったことだった。

全米の人たちが「スリル・イズ・ゴーン」の曲名とともにBBを知るようになったこと、そして時代に通用する普遍性のあるブルースを作りだせたことが、BBには最高に誇らしいことだったのだ。

1970年代、BBのファンは今や全米の人種を超え世代を超えた人々に及んでいた。

スタジオでは常に積極的に黒人音楽の進むべき道の模索を続けながらも、BBのショウの基本は変わらない。

マーケッティングをすべてマネージャーに任せ、BBはバスに乗り、飛行機に乗り、毎晩ステージに立ち、ギグをこなし、聴衆が楽しみにする「セイム・オールドBBキング」を演じ続けるだけだ。

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