ユニバーサル・ファンクの甘い罠

=アース・ウィンド&ファイアの誤算=   中村政利(レコード・ジャングル店主)

 

 中古レコード店を開業して数年たった1980年代後半、頻繁に来店してネタ探しをするディスコのDJと仲良くなった。ソウルやファンクの黒人音楽への嗜好は共通するものがあったからさまざまなLPを試聴してもらいかれのレパートリーに加えてもらえるよう働きかけたものの、1970年代のJBズ、オハイオ・プレイヤーズ、Pファンクなど、こちらがもっとも黒いファンクネスに満ちていると考えるものには「いいのは分かるんだけど小屋でかけるとなるとチョットね」とか「これで踊らせられる自信はないな」と、決して食指を伸ばしてくれない。キャミオやジェネラル・ケインなど80年代以降の黒いビート感覚に溢れた純正ファンクもけっしてかれの勤めるディスコではかけられることはなかった。

 かれが好んでかけるアース・ウィンド・アンド・ファイアや当時のクール・アンド・ザ・ギャングやシックとボクの好きなオハイオ・プレイヤーズやPファンクとの違い。それは1970年代末に大流行したディスコ・リズムに代表される等拍のパルスを持つ音楽か、ストレス(力点)のはずしを大きなグルーヴのなかで楽しむ音楽かと大別されるものだ。個人的な好き嫌いは別としても80年代末の日本のディスコではストレスのはずしを乗りこなすようなダンス文化はいまだ生まれていなかったのだ。

 ストレスのはずし。それは別の言い方をすればシンコペーションである。シンコペーションとは本来クラシック音楽の用語で「予期せぬ個所にリズムの強拍が移る現象」を言う。もっとも単純な説明をすれば、クラシック音楽であれば三拍子ならば「強・弱・弱」と拍が並ぶし、四拍子ならば「強・弱・中強・弱」と拍が並ぶ約束がある。その約束の強弱の並びが崩されることでリズムに変化が生まれることを言う。どんな場合にどんなシンコペーションが生まれるかはその音楽を生み出した言語や文化と密接な関係があり、ヨーロッパ文化の文脈の中でアフリカ音楽を聴けば、それはシンコペーションに溢れた音楽ということになるだろう。重要なのは「予期せぬ個所」という部分で、その予期とはあくまで考える人間の文化の中でという制約をもつからだ。

 ジャズやブルースが生まれる以前の19世紀。新大陸で黒人たちが創り出す音楽を白人たちは「シンコペイテッド・ミュージック」と呼んでいた。それはただ単にリズミカルな音楽という意味ではない。予期せぬところにリズムの力点がある、すなわちストレス(力点)のはずしに満ちた音楽だと言う意味だ。それは白人のリズム感覚から見て文化上の断絶があってはじめて使われた言葉であったはずだ。規則正しいパルスの反復を基本とするヨーロッパ音楽とは真逆の、白人たちにとって得体のしれないストレスのはずしを最大の特徴とすることこそが新大陸の黒人大衆ダンス音楽の歴史を通じた真実であり、黒人たちはそれを強調することでネグリチュード(黒人的特質)を維持してきたのだ。

 ボクはファンクをそのシンコペーションを最大限に活用したダンス音楽と定義する。それは機械的な等分割されたパルスの反復を特徴とするディスコ音楽の対極にあるものだ。シンコペーションが楽譜上では符点で示されることが多くあっても、ファンクにはリズムの細分化とは直接の関係はない。16ビートがファンクの特長だなどとは口が裂けても言いたくない。ファンクはあくまでシンコペーション。ストレスのはずしがそのキモなのだから。

 初期の黒人音楽がシンコペイテッド・ミュージックと呼ばれた背景には、新大陸へ奴隷としてつれてこられる以前に住んでいたアフリカでの生活の記憶があったことだろう。アフリカ音楽の特徴の一つにポリリズムがあり、それは太鼓のアンサンブルによって生み出されることが多い。儀礼や祭祀に留まらず、西アフリカにはトーキング・ドラムの伝統があり、それは太鼓を使って遠くの同胞にメッセージを送る伝達連絡手段として生活上欠かせないものでもあった。その太鼓を北米に連れてこられた黒人奴隷たちは奪われた。作ることも持つことも禁じられた。白人たちは太鼓で奴隷が連絡を取り合ったり感情の発露として太鼓を打ち鳴らしたりすることを嫌ったし、なにより暴動の合図として使われることを危惧したのだ。

 ポリリズムはジュバやハンボーンと呼ばれるボディ・パーカッションによって、あるいは、強制的に改宗させられたキリスト教の教会での合唱や祈りの儀式の中での手拍子足拍子やリング・シャウトという形で生き延びた。南北戦争後の奴隷解放で黒人たちが楽器を持ち自由に演奏できるようになった時、そのポリリズミックな感覚は白人たちにとってははずしのリズムに聞こえたことだろう。かれらの音楽が先祖のアフリカでの記憶を反映したものであったことはそのシンコペイテッド・ミュージックという呼称からも明らかなのだ。

 ダンスも同じである。19世紀から20世紀初頭にかけて流行した黒人のダンスにケイクウォークがある。これはもともとは農園主が黒人奴隷たちにケーキを賞品としてダンス・コンテストをさせたことに名前の由来があり、そのことからも、白人たちが思いもつかないようなリズム・ステップで黒人たちが踊っていたことがうかがえる。白人たちにとって黒人のダンスは以降1950年代まで見て楽しむものだった。けっして混じって踊ることがなかったことの背景には、白黒入り混じって踊ることを不道徳と考える以上に、黒人のようには白人たちがリズムを取って踊れなかったという事実があるはずだ。

 いっぽう、同じ黒人奴隷がアフリカより移送されたところでも西インド諸島やブラジル、コロンビア、ペルー、ベネズエラなどではアフリカの音楽や楽器が禁じられることなく新たな発展を遂げることになる。これはスペイン人やポルトガル人のカトリックの多神教的ないい加減さが多元文化への寛容性につながっており、アフリカの土俗信仰がカトリックと融合するシンクレティズムにも見ることができる。

 アフリカのポリリズムが中南米において単純化したものがラテン音楽に共通するクラーベのリズムだ。クラーベのリズムは単純化されたシンコペーションの構造のひとつで、パーカッショニストのウィリー長崎はシンコペーションという言葉そのものがスペイン語の5であるシンコに由来し、四拍子を5で分けることに起源があると言う。シンコが語源という意味ではシンキージョという二拍子ないし四拍子を五つに分ける分割法もそうであり、その前半部だけが独立して一小節を3(トレス)つに分けるトレシージョという分割法もある。もっとも単純なシンコペーションの形がこのシンキージョやトレシージョだという言い方をしてもかまわないだろう。

 1980年代末、ビートを均等に割るディスコ音楽の無機質なニ拍子や四拍子が世界のポピュラー音楽を席巻した。パリやニューヨークのディスコで白人たちを踊らせて初めて世界的な市民権を得られるのだという成功欲と功名心ゆえに、それぞれの民族の特性を捨てて、レゲエはスレンテンになり、カデンスはズークになり、ルンバロックがスークースになり、カリプソがソカになり、サンバがアシェーになった時代があったのだ。そういう「ワールド・ミュージック」化の流れにたったひとつ逆らったのがサルサだと思う。クラーベのシンコペーションは中南米の人々の血肉と同化し、生活のリズムとさえなっている。もちろん、かれらには日常なのだから「予期せぬところにストレスがある」というシンコペーションの意識すらないのであろう。もっとも単純で最も力強い不等分割リズム。

 1930年代ザビア・クガートがロサンゼルスとニューヨークのホテルに雇われ人気者となるのを端としてラテン音楽は全米的な流行となる。この時代にもっとも単純化されたシンコペーションの様式として米国黒人がクラーベのリズムを知ったことは黒人音楽全体に革命的な影響を与えた。1940年代以降、デューク・エリントンは言うに及ばず、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーなどのビバップの音楽家がマリオ・バウサやマチートなどラテンの音楽家と交わったのは周知の事実だし、スリム・ゲイラードからルイ・ジョーダン、リチャード・ベリーやルース・ブラウンなどのR&Bの人気者、コースターズやグラジオラスなどのドゥーワップ・グループまでもがクラーベのリズムを採用したことは枚挙のいとまがない。

 ボクはラテン・リズムをきっかけに、シンコペーションの粋を極めたという意味において最も先進的であったのが1950年代のブルースだったのではないかと思っている。12小節でAAB形式というフォーマットによる制約、キー、ドミナント(5度)、サブドミナント(4度)というコード展開の制約ゆえに、ブルースほど、その特色づけにリズムの多彩性、多様性が求められる音楽はない。ダンス音楽としてシンコペーションを極めるという点でバンド化し電気化した50年代のブルースほどリズムの実験場だった音楽は他にないのではないか。

 なかでもボクがもっともうなるのはトレシージョの応用だ。4拍子を「ひとつ半、ひとつ半、ひとつ」で3分割するトレシージョは50年代バンド・ブルースのあちこちに潜んでいる。アルバート・コリンズが、エルモア・ジェイムズが、アイク・ターナーがブルースをファンキーなダンス音楽とするためにあちこちで用いている。

 そうだ。ブルースこそはファンクの生みの親なのだ。ファンクとはもともとは性的な悪臭のことだという。鼻をつまむような、くされオメコやチンカスの匂いこそがその本来の意味らしい。ジャズ史の伝説の巨人であるニューオーリンズのバディ・ボールデンはすでに1907年「ファンキー・バット」という曲を書き「くっさいオケツをのけてくれ。窓開け空気を入れ替えろ」と唄っていた。誕生期のジャズは売春街にふさわしい猥雑な音楽だった。

肉体的な臭み。それは黒人固有の肉体感覚へと意味を転化させていく。ファンクが黒人らしさを讃えたいい意味に変わり、市民権を得たのは1950年代末のファンキー・ジャズの流行からだ。ボクたち黒人音楽ファンにとっても「鼻がひん曲がるようなクサーイ音楽」とは絶対的なホメ言葉である。

 同じ1950年代、米国の主流文化の若者たちがこぞって黒人音楽に取りつかれるようになる。DJだったアラン・フリードはR&Bにロックンロールという新しい名前を付けて白人の若者たちをライブ・ショウに動員し、ラジオでR&Bのドーナツ盤をかけまくった。熱狂した白人の若者たちは黒人音楽で踊るのが普通になったし、多くのロックンロール曲は白人アーティストにカバーされオリジナルの何倍もの大ヒットを飛ばすようになる。

黒人音楽の担い手たちはこのまま主流文化に飲み込まれてしまうのかというアイデンティティの危機を感じた。セールスの上でも白人がおいしいところ取りしているのだから。当然、黒人は白人に真似されないものを強調するようになる。

 歌において白人が決してまねできないのはゴスペルのスタイルや歌唱法だ。かくしてソウルという音楽スタイルが確立する。リズムにおいて白人が真似できないもの。それはシンコペーションの強調だ。ブルースのブレイクで多用されるシンコペーションを強調すれば白人に真似できないダンス音楽が生まれる。それがジェイムズ・ブラウンによるファンクの発明だ。かくしてもっとも黒人らしい臭みに溢れる文字通りの「ファンク」が生まれたのだ。

 実際、1956年にデビューしたジェイムズ・ブラウンの初期の作品はことごとくがブルースである。ブラウンの最初の5年間の歩みはブルースがファンクへと変態をとげるドキュメンタリーだと言ってよい。ネグリチュード(黒人特性)の強調がゴスペルからはソウルを生み、同時にブルースからはファンクが生まれた。二つの音楽は二卵性双生児のような関係なのだ。

 そんな60年代の黒人大衆音楽のネグリチュードの高まりはジャズにも投影される。1960年代はジャズにおいてもスピリチュアル・ジャズやソウル・ジャズといった黒人性を強調した音楽が最も盛んな時期だった。60年代のシカゴでアーゴやカデットという黒人レーベルから毎年4枚というシングル盤のようなペースで踊れるジャズを出し続けた人気ピアニストがラムゼイ・ルイスだった。

 シカゴのチェス・レコードのハウス・ミュージシャンとして活躍していた23歳のモーリス・ホワイトがラムゼイ・ルイス・トリオの2代目ドラマーとして迎えられたのは1966年。後にアース・ウィンド&ファイアを支えるプロデューサーのチャールズ・ステップニーと知り合ったのもラムゼイ・ルイスとの活動を通じてだ。来日公演をも含むラムゼイ・ルイスとの3年間、モーリスは人々を踊りに駆り立てる創造性あふれる即興音楽への研さんを重ねた。

1969年ホーンの入ったセルフ・コンテインド・バンドとしてEW&Fを結成。最初の仕事は70年、黒人舞台人メルヴィン・ヴァン・ピーブルズが制作したブラックスプロイテーション(黒人チンピラ)映画のさきがけ「スウィート・スウィート・バックス・バダーズ・ソング」のサントラ担当だった。ここでのアースはとにかく黒い。ワン・コードやブルース進行のギター・カッティングとタイトなドラムに乗せて、肉体的衝動に突き動かされるように地をはいずりまわるベースとエレピ。そこにパーカッションやホーンが鋭く不穏な装飾音を入れるヘヴィー・ファンク。ネグリチュードの発露という意味ではボクはそこにファンクの理想を見る。

 71年に拠点をLAに移してワーナーから発表した2枚のアルバム。若々しいロックの躍動とフリー・ジャズの即興性とスウィート・ソウルの甘美さを融合した音楽。そこでもアースは十分黒く、これはあくまで黒人を対象とした融合音楽だと言ってよい。

 アースが一皮むけるのは翌年CBSに移籍してからだ。ギターにLA在郷のアル・マッケイを入れ、デンヴァー出身のファルセット歌手フィリップ・ベイリーを迎えて一気にバンドのサウンドは明るくポジティヴになった。まさにこの世を照らす希望の星のようにファンクで人々に元気と勇気を与えたのだ。セッション音楽家歴やジャズの経験も長いモーリスだもの、ち密なサウンドもお手の物で、黒人音楽愛好家のみならず、ジャズ・ファンやロック・ファンからも広範な支持を得るようになっていく。

 75年「暗黒への挑戦」(タイトルを直訳すれば「世界のありよう」)と題されたCBSからの4枚目のアルバムでバンドの成果は頂点に達する。アルバムからカットされた「シャイニング・スター」は初のナンバー・ワン・ヒットを記録し、アルバム自体も初めてチャートのナンバーワンに上りつめた。実際このアルバムの完成度たるや素晴らしい。黒人音楽をひとまわりもふたまわりも大きなものに育てた結果のものというパワーに満ちあふれている。

 モーリスはおそらくこの時点で罠にはまったのだ。黒人音楽を超えてユニバーサルな存在になろうと思ったのだ。人種を越えて世界共通のという意味でもあれば、宇宙志向のという意味でもある、二つのユニバーサルを達成しようとしたのだ。

 1976年、アルバム「スピリット」制作中にプロデューサーの盟友チャールズ・ステップニーが亡くなった。以来、モーリスのユニバーサル志向は強くなる一方だった。ジャケットにはピラミッドやスフィンクスが頻繁に登場するようになる。曲の内容も個人の性愛を離れ、生活感のない、人類愛や宇宙の神秘や未来や過去の文明や創造主や奇跡を歌ったものが中心となる。

だが何より変わったのはそのサウンドだ。常にディスコ・ビートがサウンドの核となりパーカッションやホーンはそのビートを補強するために使われるようになったのだ。

あたかも、ユニバースという大きなステージで活躍するためには黒人の生活臭そのものを現わすファンクはあたかも邪魔者であるかのように隠されるようになったのだ。今まで述べてきたようにファンクは白人に真似されないようにと始まった音楽形態である。それは必然的にファンクの話法に慣れない乗れない聴衆を拒絶することを意味する。黒人文化に一定の理解が無ければファンクは楽しめないし踊れない。誰もが楽しめるようにアースはユニバーサル・リズムであるディスコ・ビートを採用したのだ。

 ディスコ・ビートを中心に据えてアースは78年から79年にかけて「セプテンバー」や「ブギ・ワンダーランド」のヒットを連発する。日本でもディスコの定番として人気が沸騰したのがこの時期である。来日公演を果たし、向かうところ敵なしになっていたアース。しかしそこには一切の生活の臭いはない。メシも喰わなければケンカもしない。セックスはおろかウンコもおしっこもしない宇宙人や未来人の音楽。

 ファンクをディスコ・ミュージックのひとつと考える大方の音楽ファンの向こうを張って、ディスコをファンクのアンチテーゼと考える少数の黒人音楽ファンには、重いシンコペーションでファンクのすえた臭気をまき散らすPファンク軍団のほうがはるかに大きな存在となっていったのだ。

 

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