What Do You Belong To?(あなたの所属は?)                                              

20年ほど前、金沢の音楽好きたちが集まって、前の年の年間ベスト・レコードを発表しあうミニコミを作っていたことがある。ひとりひとりが1枚の用紙をもらい手書きで気ままに書き込んだものを人数分コピーしてホッチでとめて配るだけのホントのミニコミではあったが、約30人のうるさがたのナマの意見がエゴそのままにむきだしになるというおもしろい試みでもあった。項目別にベストを記入した最後に書き手の自己紹介の欄があり、その自己紹介の欄に性別、年齢と並んで所属を書き込む欄があった。ボクは始めたばかりの店の宣伝を兼ねて「レコード・ジャングル代表」と書き込んだ。完成してもらったミニコミの記入者名やいろいろな職業や会社名の書かれた所属欄を見て、金沢にもさまざまな立場の音楽ファンがいることに感心した。しかし何よりも感心したのは当時、金沢に住んでいた英国籍のビートルズ研究家ピーター・インガム氏のその欄への記載であった。You Belong To,,,,,,と英字でも書かれたその欄にかれひとりが“Human Beings(人類)とこたえていたからである。

社会学者の西谷修によれば、今日の社会における潜在化した共同体は「人の死」によって顕在化されるということだ。死とそれにまつわる儀式によってはじめて地域、血縁、職域、交友などの人間関係が顕在化されることは、昨年亡くなった金沢のジャズ喫茶の名物店主の葬儀に集まった(あるいは献花した)ふだんは接点を持たないさまざまな顔ぶれを考えても容易に想像のできることである。共同体とは何も生活空間を共有することにとどまらないであろう。美意識や価値観という心理上の共感であっても精神的な共同体を構成することは可能なはずだ。ボクはその証左として、1980年12月に狂信的なファンの凶弾に倒れたジョン・レノンの死を思う。ジョンが亡くなった夜、ロンドンでもニューヨークでもパリでもそして東京でも、だれが組織したわけでもないのに世界各地の大都市で何百万人ものたくさんのひとびとが自然発生的に集合して夜通しの追悼をした。ローソクの灯で互いを照らしてジョンが作ったうたを歌いつづけた。国をこえ、民族をこえ、言語や宗教をこえて、ひとびとが一体になれるということを象徴するようなできごとだった。ジョン自身の願いが皮肉にも本人の死によってもたらされた瞬間でもあったのだ。

ジョン・レノンといえば、ビートルズのリーダーであり、ロック界のヒーローである。かれを同時代人として知らない多くの若者たちは、過去にはそのようなカリスマ性をもった大スターがいたのだと誤解するかもしれない。だがあの時、冬の寒空の下、ジョンを偲んで集まった多くの人々にとってのかれはけっしてカリスマなどではなかった。悠悠自適といえば聞こえはいいが、気まぐれに何年かに一度アルバムを出したり、遊び半分にコンサートに出たり、中途半端な平和運動も投げ出し気味だし、手のかかっていないなぐりがきのようなイラストや映画を発表してみたり、東洋人のお手伝いさんと家出・同棲してみたり、酔っ払ってナイトクラブから放り出されたり、あげくのはては「主夫業」を口実になまけもの生活を続けていたりと、とても誉められるような仕事も生活もしてきたわけではない。だが60年代、70年代をさまざまに葛藤しながら生きた多くの人々にとっては、かれの苦悩や焦燥や挫折や失敗と、それを包み隠さず表現する音楽作品こそが、かれに共感し、かれを隣人だ心の友だと思わせるおおきな要因であったのだ。「あのジョンがまた人騒がせなことをやっている」というのが、かれが生きているときのボクらの評価であったし、「あのジョンが死んでしまった(これからどうしたらいいのだろう)」というのが、自分のなかの一部が死んでしまったような喪失感にうちのめされた多くのひとびとの本音だったのだ。そして、そのジョンに共感するひとびとの共同体がかれの死によってはじめて目に見えるものとして現れたのがあの集会だったのだと思う。じっさいには集会には参加できなかったボクも連日のテレビ報道で世界中に同じ価値観で結ばれた哀しみを共有できる同志たちがたくさんいることを知って感動し、心の中でその集会に参加した。そこにはもはや国家なんてものは意味がない。

 「国家なんて無いとおもってごらん。難しくはないさ。殺す理由も死ぬ理由もなくなる。死ぬことを求める宗教なんてものもない。そこではすべてのひとびとが心安らかに生活しているとおもってごらん」(「イマジン」の詞の一部)

2001年9月11日の対合州国同時多発テロの直後、全米最大のラジオ・ネットが1500曲もの放送自粛曲のリストを発表し、多くの放送局がそれに追従した。テロの恐怖をあおり、社会騒乱を招くおそれのある曲としてまっさきにそのリストに載せられたのがジョン・レノンの「イマジン」であった。世界中の多くのひとびとが内省的に平和と希望をうたう平明で美しいメロディーのこの曲が放送禁止になったことをいぶかしく思ったものだ。その10年前の湾岸戦争時にも「イマジン」は放送禁止にされている。

 いまにして思えばその理由は明白だ。詞の反国家主義的なメッセージをジャマなものだと考える勢力がいたということだ。その勢力は国家と国民が一丸となって「憎き敵」を殲滅することを求めた。世界じゅうに国を超えた共同体があってもらっては困るひとびとだ。

日本でも同じ感覚のもちぬしが政治を操っている。「君が代」「日の丸」を法制化し、「有事法制」を整備し、国威を発揚するために自衛隊を海外派兵し、いまは日本国憲法の改悪さえ画策している。かれらのものさしには「日本」や「米国」や「仮想敵国」の目盛りはあっても「国際協調」はないし、「日本人」はあっても「人類」はない。かれらが目指す「フツーの国」とは、軍隊を持ち、核武装し、兵器を輸出し、天皇中心に民族の結束を高め、国民ひとりひとりが自分のアイデンティティを血統正しい「日本人」として「やまとだましい」を持っているという国に違いない。そんなものが声高に叫ばれるようになったあかつきにはボクは「日本人」をやめさせてもらおう。

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