タバコはコソコソ隠れて吸え

 

5年ぶりに米国を訪問して、その禁煙、分煙の徹底ぶりに驚いた。公共施設は言うまでもない。レストランや喫茶店など、およそ屋根のある場所はすべて禁煙だと思ってよい。図書館の入り口には「扉から20フィート(3.6メートル)以内は禁煙です」との看板があり、歩道上にも黄色く禁煙区域がライン引きされて、何人かの男女がその線の両側の歩道上で建物のかべにもたれてコソコソとタバコを吸っていた。
 なにも指定せずにレンタカーを借りたら当然のように禁煙車で車内に禁煙のステッカーが貼ってある。夜、ライブハウスへその車で行ったら、入場料を支払ったしるしに手にスタンプを押してくれた。スタンプを見せれば当夜の出入りは自由だという。日本にもこんなシステムを採用している店はあるので別段いぶかしくは思わなかったが、すぐに、米国ではその意味合いが違っていることを理解した。ライブハウスもナイトクラブも完全禁煙なのだ。客はおろか、スタッフや音楽家にもまるっきりタバコのニオイはない。タバコが欲しくなったら外へ出て吸えということなのだ。会場内は黒人街の仲間うちパーティーでブルースやソウルが演奏され、ひとびとは清浄な空気の中で飲み物を前に踊ったり唄ったり喋ったりしてくつろいでいる。
 ひるがえって日本のナイトクラブを思った。密閉された狭い中で若者たちが押し合いへし合いし、ただでさえ酸欠になりそうなよどみ切った空気の中でこれ見よがしにタバコを吸っている。あたかもナイトライフにタバコは必需品だと言わんばかりに。

タバコはかつてはおとなの男性のシンボルであった。男の子たちはティーネイジャーになるとタバコを手にしたかっこいい大人にあこがれてこっそりタバコをすってみた。僕自身はというと逆にタバコに代表される「おとなの社会」に忌避感を持ちつづけてきた。おやじたちのみっともない文化や習俗に染まるものかと一切の男性社会のシンボルを拒絶してきた。『おとな』のシンボルを唾棄してきた僕にはさいわい喫煙経験はない。

 5,6年前、地区の集会場で、小学校6年生の保護者を対象に中学への進学説明会が開かれた。畳敷きの集会所の上座に中学校の関係者たちの席がしつらえられ、灰皿が並べられていた。会場のあちこちで父親たちがタバコに火をつけると、5,6人の中学校の先生たちも校長先生以外みんなタバコに火をつけて会が始まるのを待っていた。天井あたりに紫煙がたちこめ、冬場の行きようのない空気がよどみきっていく。会が始まってもタバコは納まらない。教師たちは発言前に気を落ち着かせるために一服吸い、発言が終わるとホッとしてまた一服という具合だ。生徒指導を担当する教師が『中学生の喫煙問題に対処してまっこうから指導にあたっている』と説明しているとき、とうとう堪忍袋の緒が切れた。「その中学生たちは、教室や職員室で堂々と喫煙しているのですか」と聞いた。「いいえ、みんな、大人やまわりの目から逃れて、コソコソ隠れて吸っているのです」。「それじゃああなたたちよりはよっぽどキチンとモラルを守っているわけだ」。質問されていた生徒指導は皮肉の意味がわからずキョトンとした。ほかの教師たちはよっぽど心外だったのか、いっせいに憮然とした面持ちでタバコに火をつけた。あたかもこれは大人の特権だとでも主張するかのように。

僕はタバコは個人の嗜好の問題に収まる限りは自由に吸って構わないと思う。タバコの値段も一本10円や5円と格安でも構わないし、高い税金をかける必要も感じない。ただし、100パーセント健康に害があり、周囲にニオイの不快を与えるものを人前で吸うのは許せない。とくに、子供たちにタバコを吸うのはかっこいいことだという印象をあたえることは社会全体が慎むべきだ。テレビや映画でとくべつな理由もなくタバコを吸うシーンはあるべきではないし、喫煙家の芸能人やスポーツ選手たちはそのことを公表すべきではない。タバコはコソコソと隠れて吸うべきだし、子供の前でタバコを吸ったおとなは罰せられるべきだと思う。
                                                                                       2004年8月5日  

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