生命保険のいらない社会
11年前、いくらかの現金を遺して父が肺ガンで亡くなった。謹厳実直を絵に描いたような公務員だった父にまとまった蓄えなどあるはずもなく、その大部分は死後に生命保険として与えられたものであった。
相続をめぐる面倒を避ける気持ちもあり兄弟たちと協議のうえ、とりあえずはすべてを母に預けていたら、それまで父に固く禁じられていた株取引に没頭し、こともあろうか大きく値を下げていた山一證券の株を大量に買い込み、その倒産とともに何百万円かを瞬く間に紙くずにしてしまった。
母の落ち込みは激しく、うつ病に苦しみながら、それから一年も経たないうちに心筋梗塞でポックリと逝ってしまった。父の死から6年が過ぎていた。
母が株で失敗したのは経済にオンチだったためではない。インフレのもと経済が拡大を続けている時ならば大多数の銘柄がこぞって値を上げるということも確かにあったかもしれない。だが通常は株取引の勝者はまず間違いなく大資本家である。なぜならかれらは市場に衝撃を与えるほどの大規模な取引で株価を操作することが可能だからだ。大金持ちが大金を動かして確実に株で利益を得る。資本が資本を生む。すなわち金持ちが大衆の上にあぐらをかいて常に勝ちを続けるのが資本主義社会の構造なのだ。
限られた金のやりとりで少数の儲けるものがいる背景には常に莫大な数のスカを引くものたちの存在がある。株価を操作できない小口の投資家は常にカモとされるのが宿命。ましてバブル経済崩壊後の、ものに値段がつかないようなデフレが進行する中でシロートが株取引に手を出して、勝ち目のひとつもあるはずがなかったのだ。
西ヨーロッパに住む友人が一時帰国したおりに聞いた話だと、社会保障が整備されたかの地ではよっぽどの大金持ちでもない限り市民は生命保険などには加入しないとのことだ。日本の生命保険会社の外交員がよく口にする「万が一の際」には国家や社会が残された者の救済にあたることが約束されており、先行きの不安の少ない社会構造なのだ。すなわち社会保障の整備されない欠陥のある社会であればあるほど、先行きの不安から生命保険に加入することは必要不可欠の事となる。
なるほど、家族全員に、つめに火をともすような生活を強いながらもいくつもの生命保険に加入し、月々かなりの金額を何十年にもわたって支払い続けていた父も、一家の大黒柱である自分が老いたり亡くなったりしたあとの家族の生活に不安を抱いていたに違いない。
将来への不安感をあおって人々から集めた莫大な金で生命保険会社はなにをするのか?株取引をして儲けるのである。大衆から掠め取った金で資本をつくり、今度はそれを用いて再び大衆から金を掠め取るのである。
うちも父の代に掛け金で保険会社につくし、母の代でも株取引で保険会社につくしてきた。もうどれだけ悪口をいってもバチはあたらないだろう。
ボクは、政治は常に「先行きの不安のない社会」の建設に励むべきだと思っている。それはすなわち生命保険の必要の無い社会である。「民でできることは民へ」をスローガンとする小泉政権の「民でできること」にはとうぜん福祉も含まれている。端的に言い換えれば「社会保障に国の金はできるだけ使いません。先行きの不安解消のために自己責任で生命保険に加入しなさい」ということだ。まさに、ニューオーリンズ洪水の悲劇でも明らかとなった、アメリカ型の「福祉が資本家の欲得のために後退させられる社会」である。
そして小泉自身も言うように、その性格がもっとも象徴的に現れているのが「郵政民営化」だ。民間の生命保険より一歩、社会保障に近い簡易保険や郵便貯金を廃止し、国民が資本家の欲得の自由から必死になって守っていた340兆円の資産を、つねに勝ちが定まったバクチのような市場経済に放り込もうとするものなのだ。
そうやって先行きの不安な社会になればなるほど、「金集め」も「株ころがし」もしやすくなったと日米の生命保険会社が喜ぶに違いない。
2005.9.9 衆院選挙まであと2日
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