記憶に残ったライブ体験

               レコード・ジャングル 中村政利

 

現代人は記録好きである。幼稚園や小学校の運動会では写真機やビデオ・カメラを持たない親などほとんどいない。ビデオデッキやDVD録画機でテレビ番組を録画して楽しむくらいは当たり前。撮る時間はあってもそれを整理し編集する時間がないからと一生かけても観きれないくらいのカセットやディスクを傍らに積み上げて安心している輩もいる。とりあえず撮ることで過去の出来事を自分のものにした、と勘違いしているのだ。

かれらは記録とは記憶の補完とはなっても代償とはならないことを忘れており、逆に一期一会の出会いをおろそかにしているように僕には思われる。ほんとうにこころの肥やしとなるのは目に焼き付け、頭に刻み付けるという作業を通したものであるはずだからだ。

 

叔父が亡くなり、その葬儀の席で高校時代の地学の教師と30年ぶりに出くわした。当時は青年であったその教師はすでに引退し、すっかり老境に入り、髪の毛は半ば以上白くなっている。しかし、優しそうなまなざしは当時のままである。

ふいに思い出した。16歳のボクはいたずらざかりで、教科書を屏風に立て、その教師の授業中、弁当を広げていた。両脇のクラスメートのあきれたように笑いを押し殺した顔。左隣にはいま地元テレビ局の報道部長をやっている男子がおり、右隣には別のクラスメートと同級生結婚後いまはアメリカ・オレゴン州に住んでいる女子がいた。他人に迷惑を及ぼさない限りは自由を尊ぶ校風であった。すべてを見渡せる教卓の脇から、その教師は確かにボクの行為を確認しながら、なにごとも起こっていないかのように授業を進めていた。

そんな忘れていたような小事件の積み重ねが確かにいまのボクを造っている。その教師の人格もあるいはそんな小事件の積み重ねのなかからかたちづくられたものに相違ない。さらには両隣のクラスメートたちの人格形成にもそんな小事件はなんらかの役割を果たしたのかもしれない。

亡くなった叔父とその教師との間にどのようなかかわりがあったのかは知らないが、確かに、その教師の人格形成にも、ボク自身の人格形成にも亡き叔父はかかわり、そして故人を偲ぶというかたちでみずからの記憶を呼び起こし人や社会とのつながりを確認するために葬儀の席に着いているのだ。

日本の仏教では、初七日、四十九日、一周忌、三回忌と法要は続き、50年目で終了する。50年とは二世代である。それは、すなわち故人を直接知る人々が集い、おのおのの記憶を持ち寄って、亡き人をサカナにひとの縁を、あるいは仏の縁を確認できる最後のチャンスだということだ。すなわち記憶が存在するかぎりは、故人はひとの心の中に生きているということを確認する最後の儀式がこの50回忌なのである。

 

アフリカの部族社会を調査した19世紀ヨーロッパの研究者たちは、無文字社会のアフリカ人たちが亡くなったひとびとを「いまもそこにいる」ものとして扱うのに一様に驚いている。当時、アフリカ人にとって、ひとが亡くなることは消滅を意味しない。目に見えなくなっただけだと考えられていたのだ。そこでは最終的に誰も憶えているものがいなくなるまで死者は生者とともにいるとされた。

偉大であった民族の英雄が永遠に自らとともにあることを求めて、西アフリカではグリオ(語り部)という職すら作られた。グリオは世襲で親から子へと一世代かけてその技と記憶が受け継がれる。かれらは王族の歴史をコラという弦楽器の伴奏にのせて歌い伝える。そのすべてを歌い終えるには3日3晩かかると言われている。

かつては日本にも同じような職業があった。奈良時代のはじめに編纂された古事記は稗田阿礼らの語り部の記憶を太安万侶が書き写したとされている。それは「おかみ」主導で記憶が文字によって記録に置き換えられ権威づけられる歴史的瞬間であった。

しかし文字を持たない民衆たちは歴史や文化の記憶を放棄することはけっして無かった。鎌倉時代には名も無き琵琶法師たちによって平家物語が語られたし、近世以降も語り部が世襲する祭文や阿呆陀羅経や節段説教が浪花節や河内音頭へと受け継がれているのがその一例だ。各地に伝承された民謡、民俗芸能もかつては民衆の生活の記憶を感情豊かに反映したものであったに違いない。さきの死者を偲ぶ法事も社会性の基礎に記憶することへの尊重があることをうかがわせるものである。

 

ボクには近代化とは一面にはそんな民の記憶を記録へと置き換える作業であったような気がしてならない。形態の永久保全という安心を求めて記録された文化はそうされることで本来の生命力を失わされていく。「保存会」の名のもとに生活感情とはなんの繋がりもなくなった伝統芸能の無残な姿を見よ。多くの伝承歌や民謡も明治以降、民の記憶を恐れる「おかみ」の指導のもとに「整理」され、「性」と「政」とを骨抜きにされ記録された。そして記録されると同時にいのちの感情を伴った記憶は切り捨てられ忘れ去られてしまった。ひとり琉球民謡のみがその方言の難解さと即興性ゆえに統制をまぬがれ本来の生命力を永らえさせることができているではないか。

 

音楽や芸能にとどまらずあらゆる表現活動は個人のあるいは集団の記憶に依拠することで生命力(エロス)を維持できるものなのだ。

確かに記憶は変容する。何らかの意図のもとにでっち上げられることさえあるかもしれない。しかし、その変容は記憶がわれわれにとって意味を持ち続けるための成長という側面もきっとあるはずだ。すなわち記憶とは不変なものとして記録されるものではなく、それそのものが反芻されるごとにひとの生活感情にともなって変容する生き物なのである。感情に依拠し、集団内で昇華された記憶は伝説となる。伝説は人から人、世代から世代へと伝えられ、けっして定まった形を持たない。しかし逆説的にも、その可変性ゆえに、時代を越えた普遍性をもち生命感にあふれているというわけなのだ。

 

魂を揺さぶるライブ体験も人格形成に大きく寄与する記憶行為のひとつだといえるだろう。不幸にして天と地とが引っくり返るような感動をあたえられたライブ体験は僕にはないが、それでも、いくつかの本物との出会いが確実に僕の美意識や価値観を造り上げてきたことを僕は確信している。今回は僕の人格形成につらなる記憶の拠り所となるいくつかのCDを紹介したい。

Bobby Blue Bland   Live On Beale Street (P-ヴァイン PCD−5338)¥2625

ホリゾントに当たる照明がオレンジからダーク・ブルーに変わると、ステージからホーン隊やキーボード奏者が引っ込み、演奏者はギターとベースとドラムだけになった。ギターが聴きなれたカッティングで三連符を刻むと、寄り添うようにリズムをつけるドラムとベース。マイクを両手に持ち斜め上の宙を見つめながらギター・ソロのイントロを聴いていたダンディズムを絵に描いたようないでたちのブランドは、すくっとマイクを持ち上げて、さも当たり前に、つぶやくように歌い出す。

They Call It Sto-o-ormy Monda-a-ay, But Tue-e-sday Is Just As Ba-a-ad

「カッチョいーい」。1978年10月、中野ザンプラザの1階B席で見ていた僕は全身の鳥肌を逆立てながら凍りついていた。

「存在そのものがブルース」。コンサートの2ヵ月後、ぼくよりほんのひとつ年上の当時23歳の高地明がニュー・ミュージック・マガジン誌で同誌編集長の中村とうようをコテンパンに論破し、ボビー・ブランドを称揚するキー・フレーズを吐く。まさにその言葉そのものの本質的な意味を僕自身が初めて体得するようなライブだった。

ただブランドがかっこいいのではない、ブランドはかれを支え取り巻くコミュニティの象徴であり代弁者であり司祭でありスターなのだ。千両役者ブランドを通してコミュニティの価値観や美意識に共感できるからこその感動なのだ。

このアルバムは96年に録られたデビュー45年にして初めての単独オフィシャル・ライブ・アルバム。もはや円熟を通り越して老境の大歌手としてのアルバムだが、ほかのどんなブルースマンのライブよりコミュニティの象徴としての華があり、「ブルースの場」に酔いしれることができる。

 

O.V.Wright On Stage (Demon HIUKCD-169) ¥1800

 

自分が立ち会ったライブがレコードとなるという幸運はメッタにあるものではないが、サザン・ソウル不世出の名歌手OVライトの唯一のライブ・アルバムに自分の声まで残せたというのはたいしたもんだと自慢している。

時は1979年9月29日、場所は東京の渋谷公会堂。前座女性歌手のフランキー・ギアリングの絶唱に会場は盛り上がっていた。

まだ40歳になったばかりのOVライトを招聘元の司会者は病身と高齢をおして来日してくれたと紹介した。トンチンカンなアナウンスに苦笑し、ハイ・リズムと呼び出しのジミー・ウェッブのステージに期待を膨らませていると、つづいて、ジミーがThe Star Of The Showと連呼しながらOVを呼び寄せるためにステージの左袖へ。ところが、ジミーに支えられてゆっくり舞台に登場したOVを見て、ほとんどの観客は自分の目を疑った。これがOV?ジャケット写真の恰幅の良さとはあまりに正反対の痩せぶり。しわの多くなった顔もほとんど老人だ。急に痩せたためか眼鏡が顔に合わなくなっており、ひっきりなしに眼鏡をずり上げる様が痛々しい。

だが、マイクに向かうOVは凄絶だった。ソウル(魂)を伝えるために自らの魂(ソウル)をすり減らしながら絶唱するかのようだ。観客のだれもが、かれが歌いながら昇天してしまうのではないかと気をもみながらも、そのショウが一生で一回こっきりのかけがえの無い体験として記憶されるべきものだと思っていたはずだ。

僕はこのライブをCDで聴く度に、渋谷公会堂の最前列で純粋な魂の発露に打ちのめされたように放心していた23歳の自分に戻る。本物の歌手のソウルに感応する僕の魂もまた純粋だった。

 

秋吉敏子“The Amazing Toshiko Akiyoshi” (ユニバーサルUCCU-5179¥1995

デビュー以来50年以上にわたって一書生のような純粋で謙虚な向上心を保ち続けてきた音楽家がこの秋吉だ。

忘れもしない2000年10月15日、金沢のとなりまち、野々市のフォルテという町営ホール。その大多数がけっして秋吉の音楽にもジャズにも深い造詣があるとは思われない田舎の聴衆を前にして秋吉はとつとつと自分に語りかけるようにバド・パウエルに対する思いを語り、ひとつひとつの音符をいとおしむようにバドの曲を演奏した。

「ビッグ・バンドではやれるところまでやって来た。ピアニストとなら自分はまだまだ向上の余地がある。日本人ならではの美学をジャズに取り込むことで、自分を育ててくれたジャズがますます発展するよう恩返しをしたいのだ」と語りオリジナル曲へとプログラムは進む。ジャズに対する思い。先輩たちに対する思い。音楽に対する思いの真摯で正直なことに大きく感動し、ジャズ史に大きな足跡を残している当時70歳の大音楽家が少女のままの純粋さで音楽に取り組む姿勢にこころが洗われる思いであった。

翌日の朝、秋吉と同い年の僕の母親が旅先でぽっくりと亡くなった。

このアルバムは来日したオスカー・ピーターソンの推薦で1953年に録音発表されたデビュー録音盤。パウエル・マナーの初々しい演奏だが、すでに、日本人ならでは、女性ならではの美学が個性となって花開いている。

 

Neville Brothers Neville-ization (Black Top 1031) \1880

 3度見たネヴィル兄弟のライブでもっとも感激したのは、かれらの本拠地ニューオーリンズで、港の埠頭の特設ステージに出演するのを、運河に停泊するリバーボートの上から見たときである。時は1990年2月のマルディグラ・デイ(カーニバルの日)。宵闇の中に浮かびあがる野外ステージ前には数千人の観客たち。いっぽうこちらは、5メートルくらいの高さからかれらを真下に見下ろすデッキの上。船べりにひじをついて夕風にふかれながら眺めるのはせいぜい10数名の乗客たち。というのも、船内では別のライブが進行中で、ドクター・ジョンの出番までの時間稼ぎにとデッキへ出たらちょうどネヴィルが始まったという寸法だったのだ。

終始うしろすがただけのライブだったが、それはそれで新鮮だった。地元の若者たちが大多数を占める観客たちに、かれらがいかに愛されているかということも目の当たりにできた。グループのコーラスやパーカッションのサウンドがオフマイクで耳に届き、あたかもメンバーに仲間入りしたかのような臨場感に興奮した。アーロン・ネヴィルのファルセット・ボイスが、アンプで拡声され観客を越えて宵闇に吸い込まれていくのを聴いて涙したのはけっして旅情のせいだけではない。宵闇のかなたに広がる魑魅魍魎が巣食う魔都のしじまとその文化や歴史の重みに当てられてしまったのだ。

50年代からニューオーリンズR&Bの推進役としてそれぞれが活躍し、70年代半ばからは血の結束によってバンドとなった音楽家兄弟たちは、あたかも、演奏活動が日常生活の延長であるかのような自然体であった。それからさらに15年。いまもかれらは、第二世代、第三世代の子息たちに、音楽家としての記憶を引き継ぎながらも21世紀のファミリー・グループの理想型を模索し続けている。

これはそんな、魔都を代表するファミリー・グループの82年のライブ盤。23年前と大昔の録音だが、基本的な音楽性には現在と少しの断絶も無い。

 

Los Lobos Live At The Fillmore (Hollywood 162514) \2280

 

 なんかどんどん小難しくなっていく印象があって、つとめて無視するようにしてきたのがここ10年くらいのロス・ロボスのアルバムだった。だから、この夏フジ・ロックで初めてライブに接し大地にしっかりと根を張ったルーツ・ミュージックとしてのかれらの演奏を目の当たりにして目からウロコが落ちるような感激を味わった。

7月31日。午後10時から2時間の演奏。ふたりのギタリスト、デビッド・イダルゴとルイ・ペレスが交互にボーカルを担当しながらテンションを上げていく。後半、デビッドがアコーディオンに持ち替えてポルカやクンビアを演奏し始めると会場はメキシカン・ムードいっぱい。そして続くはヒット曲のオンパレード。結成32年のバンドの歴史を余裕たっぷりにヒット曲を歌いつないで観衆に聞かせ、踊らせ、叫ばせ、飽きさせない。アンコールはお定まりのロックンロール「ラ・バンバ」。コミュニティーの大きな支えをもって世代を超えた人気を集める老舗バンドのノリに、雨上がりの泥田のような会場で踊り狂う観衆たちは全身泥まみれになりながらも、あたかも、泥んこコミュニティーの一員であるかのようなかりそめの結束感をもって盛り上がったのだ。

でも、ホントは僕が最も感激したのはそのステージじゃあない。同日の午後に何の告知もなくこっそりと森のなかで行われたゲリラ・ライブ。

仮設トイレに並んでいると、森の中からゴキゲンな音楽が聞こえてくるではないか。茂みをかきわけ到達すると、50人くらいの観客を集めて、ロス・ロボスが演っていた。大掛かりなPAなどなく、あたかもお祭の余興バンドといった景色。バンドも普段着そのものにリラックスしてテックス・メックス(メキシコ系テキサス音楽)ばかり演奏する。曲間のアナウンスもすべてスペイン語。チカーノ(在米メキシコ人)のヒーローとしての、このバンドの本来の顔を運良く垣間見られた幸運な聴衆たちの表情にはみんなピースマークが浮んでいた。

そのチカーノ魂は、今年発表されたこの最新ライブ・アルバムでも、後半に並ぶスペイン語タイトルの曲で堪能できる。





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