テキサスのこれぞホンマモンのダウンホーム・ゲットー・ブルース

Matthew Robinson&the Texas Blues Band (Dialtone DT0006)
Matthew Robinson "Bad Habits"(Fedora FCD5008)




 なにをもって優れた音楽であるかというには諸説あるだろうが、僕にとっては「緩急」の対比がもっとも主要なことのひとつだ。とくにブルースというフォーマットにはこの緩急をきちんと構成できることこそ必要不可欠の美学なのだ。「緩急」は「緊張と緩和」という言葉に置き換えてもいい。いくら、ギターやピアノがうまくても、この緩急をふまえることなしにはダイナミックな表現もないだろうし、ブルースゆえのカタルシスが聴衆をノックダウンすることも決してない。エリック・クラプトンのスロウ・ハンドじゃあけっしてイケない理由もまさにここにある。ひとことで言えば、多くの白人のブルースには「キメ」の部分が弱過ぎるということだ。
 そして、そんなブルースのダイナミズムの美学を体現する歌手のひとりが、日本ではアルバム紹介のない、このマシュー・ロビンソンというシャウターである。
 テキサスの場末のブルース・クラブのちいさなステージにスポットライトひとつを浴びて、この男がステージにあがれば、そこには心に傷を持つあらゆる男女の魂を引き付ける強力な磁場ができる。この男が語り、歌い、鼻をならし、叫び、ギターをかき鳴らし、膝をついてこぶしを振り上げるたびに、すこしだけ着飾った中年男女のだれもがステディなビートに身を揺らしながら自分の物語をうたに同化させている。そうだ、かれのうたは自分のうたでもあるのだ。そして「キメ」のところでは思わず全身を硬直させて、こぶしを握るのだ。あるものは、心のなかで、そしてあるものは口にだして叫ばずにはいられない。「イエー!」。
 僕は日本の片隅でCDでこのブルース・マンの音楽を聞き、自分がテキサスに住む黒人では決して無いけれど、かれらと共通の美意識の持ち主であることを確認する。そして、彼らと同じカタルシスを感じて自分につぶやくのだ。「ああ。ブルースが好きでホントに良かった」と。
 2002年12月、パークタワー・ブルース・フェスティヴァルで生の彼を聞いた。
 ホームズ・ブラザーズも、イースト・サイド・キングスも、ジョディ・ウィリアムスも素晴らしかったけど、僕にはやっぱりマシュー・ロビンソンが一番だった。
華があった。たった2曲の短い出演ではあったけれどまさにハイライト。青いスーツでギター無しに手ぶらで出てきて歌った「クロス・マイ・ハート」の大きな表現力を僕は一生忘れない。




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